5月1日(金)

今の職場に異動してからちょうど1か月。

講義の準備や演習の予習に追われていたが、ようやくゴールデンウイークが見えてきた。祝日授業のため、29日は通常授業であったが、研究棟はどことなくがらんとしていた気がする。

 

前の職場では同僚の先生方はとてもいい方たちばかりで働きやすかったが、自分の研究がほぼ出来なかったし、考える時間もなく、ムスメの育児に関わる時間もあまりなかった。子育てはほぼ夫と保育園任せであった。授業担当科目も専門外だった。

この職場に勤務するからには永久に専門外の科目を教える条件を採用の段階で突き付けられたので、承知の上ではあった。ただ、専業非常勤だった自分にとっては、採用していただけて本当に有り難かったし、退職するまで専門外を教え続ける条件は、理不尽なようでも「いつか異動を考えねばならない」と天から啓示されていると受け止めていた。

 

兎に角、高校の教員は本当に多忙であった。

1ヶ月休みがないのは当たり前で、膨大な雑用が降りかかってくる。保護者への対応、部活動、生徒指導、授業準備。この3年間は貴重な時間であった。

 

一方で学会の情報を見聞きするにつけ、自分は何をやっているのだろう?と悔しく思うこともしばしばあった。たぶん、前職場で働くのは3年が限界だったのかもしれない。研究する時間がなさ過ぎた。

高校では「研究」は求められていないのだと実感した。

なにせ、どんなに業績があっても研究者番号すら支給されないのだから。

 

自分は博士後期課程に6年間在籍した。だが、学会を見渡すと、自分と同じ年齢の人達は、皆大学の非常勤講師や助教となっていた。自分より年下の「センセイ」の前座を務めることもあり、鬱屈していたと思う。

自分の大学の助手や助教の公募もばんばん出したが、全部落とされた。

院生同士も仲が悪く、教員のお気に入りになるためならば手段を選ばない人間が多く居た。ある教員からは執拗に研究をやめるよう迫られたこともあった。事情を知る院生たちはそれを粛正と呼んでいたが、振り返ると生き残ったのは自分だけである。

その頃のことを回想すると暗澹とした気持ちになる。なぜ研究を続けられたのか、自分でもよくわからない。

 

前の職場には4年ほど非常勤講師をつとめていた。

その間、生徒達のまっすぐなパワーは、邪気にまみれた自分の心を明るく照らしてくれたと感謝している。

自分がされたことは生徒達に語らなかったが、彼らには同じ苦しみを経験させたくない。ただ、もし大学生活で人権を踏みにじられる出来事に遭遇したら、すぐさま高校の教員に相談するように、と言った。

 

コネクションがない自分は公募でガチンコ勝負を挑むしかなかったので、院生の頃から助教も含めて応募しまくり、全て書類で落ちていた。今の職場が初めての面接だった。採用してくださった先生方には心から感謝している。有り難いことであった。

ようやく、前を向いて歩いて行けるような気がした。

 

そんなことを振り返りながら、今日も研究する。